健康を「求めすぎる」時代に、
医療は何を担うのか

慶應義塾大学医学部神経内科 教授 中原 仁 先生

体の異変に気づいたら早めに受診すること、日頃から生活習慣を整えること——これらは健康的に生きるうえで重要です。そのために健康リテラシーを高めることの意義も広く知られるようになりました。
一方で、慶應義塾大学医学部神経内科教授の中原仁先生は、「健康を求めすぎること」がかえって心身に負担をもたらす可能性を指摘します。人は誰しも老い、やがて死を迎える存在です。その前提に立ち、人それぞれの違いを受け入れる視点こそが、真の意味での健康につながるのではないか——。本インタビューでは、健康リテラシーとどう向き合うべきか、中原先生のお考えを伺いました。

「健康」を求めすぎる社会

現代社会における「健康」の捉え方について、先生はどのように感じていらっしゃいますか。

 現代社会では、「健康であること」が強く求められる傾向があります。「正常」と「異常」を明確に区別しようとするあまり、「わずかな異常も許されない」という発想に陥りやすくなっています。
 しかし、人は本質的に老いていく存在であり、いずれ何らかの不調や病気と向き合うことになります。この前提を見失うと、わずかな変化にも過敏に反応し、必要以上の検査や過剰な医療介入を求めてしまうことがあります。本来は個人差として受け止められる状態までもが「病気」として認識される場合も少なくありません。

 かつては家族の中で老いの過程や死に触れる機会がありましたが、現在はそうした経験が減り、若く健康なイメージばかりが強調されがちです。その結果、自分がその基準から外れることに対する不安が大きくなっているのかもしれません。

神経の病気は「早く見つけること」が最善とは限らない

早期発見・早期介入の重要性は広く認識されていますが、神経疾患領域ではどのように考えるべきでしょうか。

 早期発見・早期介入の重要性は、神経疾患領域においても広く共有されている基本原則です。しかし、神経変性疾患や機能性疾患の一部では、診断の確度や予後の見通しに不確実性が残り、医療介入による改善が限定的となる場合も少なくありません。

 神経の病気の診断は、臨床症候、画像所見、電気生理学的検査、バイオマーカーなど、多層的な情報を統合して行われますが「異常とは言いきれないが、正常とも言いきれない」という状態が続くことがあります。例えば、もの忘れ一つとっても、年齢や個人差によって評価は変わります。症状や検査所見が非典型的な症例も多く、老化による変化と病的な変化の見極めが難しく、検査を重ねても白か黒かを明確に判断できず、確定診断に至るまで時間を要することもあります。
 もう一つの理由は、治療できる病気が限られている点です。医師から「現時点の医学では治療が難しい」と告げられたとき、患者さんは身体だけでなく心にも大きな負担がかかる可能性があります。発見によって、かえって不安や苦しさを生むこともあるのです。

「知ること」と「生きること」のあいだで

健康リテラシーは知識量の問題として語られることが多いですが、神経疾患において、どのような視点が重要になるのでしょうか。

 健康リテラシーは一般的に「正しい知識を持ち、適切な行動につなげる力」と理解されています。もちろん知識は重要です。しかし、臨床の現場では、情報量の増加が必ずしも意思決定の質の向上に結びつかない場面もあります。インターネット上の断片的な医療情報によって過度な不安が生じたり、過剰な医療利用につながることもあります。

 とりわけ神経疾患においては、「知ること」が必ずしも安心につながるとは限りません。知識は本来、判断を支えるためのものですが、不確実性への理解を伴わなければ、かえって判断を難しくする可能性があります。したがって健康リテラシーは、単に知識量を増やすことではなく、情報との距離の取り方や、不確実な状況をどのように受け止めるかという姿勢を含めて捉える必要があります。

 予後の見通しや治療選択に限界が存在する神経疾患領域においては、「情報を理解する力」に加えて、「不確実性を受容する力」や「情報と適切な距離を保つ姿勢」が重要な構成要素となると考えています。

 

中原先生が考える「健康」とは。

 人間は本来、多様な存在です。外見や体格だけでなく、健康状態にも個人差があります。医学で用いられる「正常値」も、統計的に導き出された一つの目安にすぎません。その範囲から外れたからといって、直ちに異常や病気にはあたりません。

 しかし現代社会では、「正常」の範囲に収まらなければならないという強い意識が生まれています。健康リテラシーを高めることは重要ですが、それが行き過ぎると、人が老い、変化し、やがて死を迎えるという自然な過程を受け入れにくくなってしまいます。「正常」から外れても、それは異常ではないのです。人は誰しも年をとり、病を抱え、いずれ死を迎えるという事実を前提に、健康とは何かを考えることが大切です。違和感や不調とうまく付き合い、ときにはそれを自分の一部として受け入れる。そうした視点を持つことで、たとえ身体に変化があっても、心の健康を保つことは可能です。

 健康リテラシーを高めることは重要です。しかし同時に、それにとらわれすぎない柔軟さもまた、私たちがよりよく生きるために欠かせません。医療者側も、すべてを明らかにすることだけでなく、「わからなさ」とどう向き合うかを丁寧に共有する姿勢が求められると思います。

 健康とは単に異常がない状態ではなく、その人がその人らしく生活できる状態です。多様性を尊重し、受容的かつ包括的に健康を捉える視点こそ、これからの医療においてより重要になるでしょう。

 

中原 仁 先生 (なかはら・じん)

2003年 慶應義塾大学医学部 卒業
2004年 独立行政法人日本学術振興会 特別研究員(DC1)
2007年 慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程 修了
2007年 独立行政法人日本学術振興会 特別研究員(PD)
2008年 慶應義塾大学医学部総合医科学研究センター 特任講師
2013年 慶應義塾大学医学部内科学(神経) 助教
2018年 慶應義塾大学医学部内科学(神経) 教授
2024年 慶應義塾大学神経難病iPS細胞研究センター センター長(兼務)