暮らしと医療をつなぐ
─地域医療の今とこれから

東京大学名誉教授 北村 聖 先生

どこに住んでいても安心して医療を受けられる社会をつくるには、医療の現状や課題をとらえる視点が大切です。今回は日本の地域医療の課題と、これからを担う若手医師に求められる医学教育のあり方について、長年にわたり国内外の医学教育の発展に携わってこられた北村聖先生にお話を伺いました。
医療の不均衡とはどういうことなのか? 「かかりつけ医」にはどんな力が必要なのか? そして、未来の医師たちに今、何が求められているのか──。
医療を支える人、受ける人、すべての人にとって、考えるきっかけとなるお話です。

“都市vs地方”では語れない地域医療の現実

先生は、現在の地域医療をどのようにご覧になっていますか?

「日本の医療に不均衡がある」と聞くと、みなさんはどのような状況を思い浮かべるでしょうか。
例えば、地方では医師の不足や診療科の偏りにより、診てもらえない病気や受けられない検査がある、医療機関が少ない、交通手段が限られていて受診が困難──といった状況を想像される方もいるかもしれません。北海道や東北、離島などをその代表とする声もあるでしょう。

しかし、「人口あたりの医師数」という視点から見ると、最も医師数が少ないのは茨城県や千葉県などの首都圏近郊です。日本は急速に人口が減少しており、今後は都市と地方の人口分布の偏りがさらに顕著になると考えられています。
首都圏では高齢者も若年層も増加し、それに対して医師数が追いつかず、人口あたりの医師数はさらに不足することが予想されます。一方、人口が減少した地域では、必要とされる医師数自体が少なくなる可能性もあります。

地域医療の実態は、“都市vs地方”という単純な構図では語れません。問われているのは「医療を誰がどう担い、どう支えていくか」という視点です。医師の数だけではなく、地域のニーズ、医療アクセス、病院の機能など、地域の特性に応じた医療提供体制をいかに整えるかが、本質的な課題です。

地域医療を担う医師に求められる役割や資質とは?

私はかつて、長崎県の五島列島を訪れた際、住民の方々から「島の診療所に高血圧を診られる医師がいなくて困っている」という声を聞きました。派遣されていた医師の専門が糖尿病で、「血圧は専門外なので診られない」と断られたというのです。このように、特定分野を専門とする医師だけでは対応しきれない日常的な疾患にこそ、地域医療の特性があります。

病気には、よくある軽症のものから、まれで重篤なものまで幅広く存在します。ある有名な論文では、仮に1,000人の患者がいた場合、その90%は風邪や胃腸障害、生活習慣病などの「日常的な疾患」であり、大学病院などの高度医療を必要とする患者は全体の10%程度にすぎないとされています。

この90%の人々の健康を守るには、子どもから高齢者まで、幅広い病気を診療できる「かかりつけ医」の存在が不可欠です。こうした能力を備えた医師を「総合診療医」と呼びます。総合診療医の育成は、地域の医療体制を支えるカギです。

2004年に始まった新しい医師の研修制度では、総合診療医の育成が重要な目標の一つとされています。現在、多くの研修医が大学病院ではなく、地域の市中病院での研修を選び、幅広い診療能力を身につけています。
今後、地域の医師不足や診療科の偏りを解消していくには、総合診療医と専門医をバランスよく配置することが重要であり、そのためには各都道府県の実情を踏まえた施策が求められます。

「健康格差」を生む本当の要因

地域による医療の“質”や“量”の違いが健康に与える影響について、先生はどう評価していますか?

医療こそが健康に最も大きく影響すると思われがちですが、実際にはそうではありません。研究によれば、医療の影響は健康全体のわずか10%にすぎません。

もし医療へのアクセスが地域によって大きく異なるのであれば、地域ごとに平均寿命に顕著な差が見られるはずです。しかし、実際にはその差はごくわずかです。100歳を超えて自立した生活を送っている高齢者は、全国どこにでもいらっしゃいます。
これは、国民皆保険制度によって、医療の「量」と「質」が全国に広く行き渡っている証です。

健康に大きく影響するのは、実は「所得」「教育」「職業」「住環境」「社会的支援」といった社会的要因です。これらは「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health:SDH)」と呼ばれます。
地域の医療格差は、住民の健康にそれほど大きな影響を及ぼしていないのです。
自分を取り巻く社会的要因を意識し、改善に取り組むことが、健康への意識を高め、病気を予防することにつながります。

医師のキャリア、多様化の先にある“選択の責任”

医師としてのキャリア選択に、“正解”はあると思いますか?

過疎地の診療所で一人で開業する医師は、高収入を得ることは難しい現実があります。収入を重視するのであれば、都市部で開業する方が有利です。
最近では、美容医療の需要が高まっており、初期臨床研修を終えた医師の中には、専門医の資格を取らずに美容医療へ進む人もいます。このような動きを俗に「直美(ちょくび)」と呼び、3年目の若手医師でも2,000万円、5年目では3,000万円近くを稼ぐこともあるそうです。

一方で、地方の診療所で一生を過ごす医師もいます。大きな収入を得ることはできなくても、地域住民の健康を支える存在として信頼されています。
医師のキャリアには多様な道があり、「正解」は一つではありません。それぞれの選択には、それぞれのやりがいや責任が伴い、どの道も日本の医療を支える役割を担っています。

これからの医療を担う若手医師へのメッセージ

これから医師を目指す方には、病気そのものではなく、「その病気を抱える人」と向き合える医師になってほしいと願っています。
たとえば「90歳の患者に生じた肝硬変に興味を持つ」のではなく、「肝硬変を抱える90歳の患者その人に興味を持つ」──そうした姿勢が、信頼される医師を育てます。

医学は、人類が約5,000年かけて積み重ねてきた知の結晶です。現代の日本においては、平均寿命が男性約81歳、女性約87歳ですが、古代では20年にも満たなかったとされています。新生児が成人になる確率も、当時は非常に低かったことでしょう。
そうした時代から、人類は薬草を見つけ、衛生を保ち、細菌やウイルスと闘いながら、医学を発展させてきました。医師を志す人には、誇りと志をもって学んでほしいと思います。

すべてを知っている必要はありません。知らないことがあるのは、恥ずかしいことではないのです。
医学教育で最も難しいのは、「やる気」や「モチベーション」をどう維持するかです。自分の理想とする医師像──「あの先生のようになりたい」という存在を見つけることも、一つの方法です。目標が明確になれば、自然と学ぶ意欲も高まります。

このような教育的効果は「ヒドゥン・カリキュラム(hidden curriculum)」と呼ばれます。これは、社会や組織の文化、雰囲気を通じて、学生が無意識のうちに身につける価値観や態度のことです。医局の雰囲気や先輩医師たちの姿勢が、生きた教材となります。知識だけでなく、現場でのロールモデルや文化が、若手の成長を大きく左右します。ヒドゥン・カリキュラムがうまく機能すれば、優れた医師が育つでしょう。

「プロフェッショナル(professional)」という言葉は、もともとキリスト教の聖職者を指す言葉でした。現在では、医師や法律家、学者、教師など、高度な知識と技能を持ち、社会にとって重要な役割を担う職業を指します。こうした職業には、高い倫理観と社会奉仕の精神が求められます。

「どんな医師になるか」ではなく、「どんな人として医療に向き合うか」が問われているのです。医師として、そして一人の人間として研鑽を重ね、真のプロフェッショナルを目指してほしいと願っています。

北村 聖 先生 (きたむら・きよし)

1978年 東京大学医学部医学科 卒業​
1980年 東京大学医学部第3内科(高久史麿教授)入局、血液研究室所属​
1982年 東京大学医学部免疫学教室(多田富雄教授)研究生(1984年3月まで)​
1984年 米国スタンフォード大学医学部腫瘍学教室(Ronald Levy 教授)​
1990年 東京大学医学部附属病院検査部 講師​
1995年 東京大学医学部臨床検査医学講座 助教授​
2002年 東京大学医学教育国際協力研究センター 教授​
2003年 東京大学医学部附属病院総合研修センター センター長(併任)​
2017年 国際医療福祉大学 医学部長、東京大学 名誉教授​
2019年 公益社団法人地域振興協会 顧問​
2021年 獨協医科大学 特任教授(兼・非常勤)​
2021年 臓器移植ネットワーク専務理事(兼・非常勤)​